昭和50年9月23日   秋季霊祭  ●②x2 ③④  大坪かよこ



 御霊祭りも、御霊様方の、お喜びを受けさせて頂きながら、無事にお祭りを終わらせて頂きました。
この御霊様のお祭りをまた境に、御霊様も、御霊様ながらの、御霊ながらの信心を進められ、いよいよ御霊ながらの働きがおできになり、喜びの御霊、安心の御霊として一段とおかげを受けて頂かなければなりません。
その御霊のいうなら根の喜びを、また私共もあやからしてもろおうて一段信心を、いよいよ深めていかなければならんと思います。
私は今日のお月次祭にあわせて、この霊祭が・・ような事をこれいかんの、聞こえるの、聞こえますか、聞こえる、ぁ聞こえるですか、お祭りを終わらせて立ち上がろうとするときに、●②神様から、ご神願に沢山の御霊様が、もう整然と整列をなさっておられる所を頂いて、今日の御霊のお祭りを沢山の御霊がまっておるという意味のことを頂きまして、もう感動してから、ほんとにあの、信心の喜び、信心のこの感動というものは、これはもう、どういう喜び感動も、真似たり、それを味あおうとして、頂けることではないものが、あるのです。
私は今日、そういう意味での感動を、今日、お昼頃でしたでしょうか、テレビをあの子供が付けとった見ましたら、ちょうどその、あれはなんていうでしょうか、どっかのやっぱり偉い住職でしょう、おぼんさんとそれから、あの人は確か、漫画家と思いますけれども、なんとか太郎さんというですかね、二人のまぁ、このお彼岸ですから、あの、御霊様とか、仏様のことについての、まぁ、討論会ではなかっ、ようなものではなかろうか、中を取り持って、アナウンサーの方達が、こう具合よう、そのあれをとっていきよりましたけれども、どうもあの雰囲気がね、片一方は御霊様がござる、だから信心をしなければならない、とおぼんさまはもう、説いておられたあとのようでした。
しかも大変こう、教学的に、仏教のいうなら、教典から引いての何かお話しだったらしんです。
ところが、その片一方、あ、確か岡本太郎さんかなんかていうですね、漫画家の方。
もうそれこそ、まあ、いうなら、面見るとも面見苦しいごたある顔でですね、むきになってね、そげなもんはおらんち、ああ、あたし達は死んだっちゃ、そのまた葬式をしてもらおうともおもわんし、また、沢山あげな、墓てんなんてん建てる必要はないと、もうこげな馬鹿らしいことはない、もそれは散々に、いうなら、無神論の側からの、片一方はやっぱり宗教家の方ですからね、もう、それに例えば答弁をされる、討論を例えばされれば、立派なお答えも出来られる方であると思いましたけれど、ま岡本さんが仰ることもまた一理ですねといったようなことで、も、終わったんです。
私もそれを聞きながらね、残念だなー、しかもね、その岡本さんの言うておられる、仏があるもんか、御霊があるもんか、魂の世界などはというように、とにかく人間はね、死んだらもう、どろになるんだと、いうならば、それで事実です。
ね、自然に帰るんだ、天地に帰るんだと言う意味のことを言われた。だからその御霊やらは、お祭りせんでもええ、葬式なんかしてもらうことはいらん、とこういうわけなんです。
私は何かこう宗教、なら、有神論者と申しましょうか、ね、魂の世界はあると信じ、ね、仏様がござると、神様がござると信じておるものから言うと何かこう、歯がゆいような思いが致しましたら、●② あの神様からね、おかげがあるじゃ無いかと、神様から頂いたです。
もう私は感動してから、繁雄さんに足を揉んで貰いながら、繁雄さんがおかしかろうと思われるくらい感動しました。
ね、なるほどこれでは、今の仏教がです、どんなに教理、教典をひも解いて、どんなに御霊有と信じろと言うてもです、信じれれるはずもなからなければ、力がない、いや言えば言うほど、こちらにも理はある、こちらにも理があるのですから、討論に終わるに間違いないと言うことです。
ね、私はね、それを今日は感動させてもらったことですけれども、ね、おかげがあるじゃないかと、ね、教祖の神様が、この肉体がなくなったら、それこそ、小藻に巻いてね、山にいけようと川に流そうとかまわんけれど、ね、後の祭りだけは大切にせいよと仰った。
まあ、川に流したり、山に埋めたりも出来まいから、神の資格で葬儀をせよと生前仰っておられた。
神の資格で葬儀をせろとこう仰っておられる。
だから教祖さまのあのご葬儀ん時には、ね、まだ金光教の何にも分からない時ですから、それこそ赤の着物を着て、お葬式があったというのでもうそれこそ、世間一般の評判になったというくらいでございます。
ね、だから、教祖の神様がね、後の祭りを大切にせよと仰せられるから、後の祭りを大切にさせて頂くとです、喜びもいただけるがです、ね、御霊も喜ばれるだろうと感じられると同時にです、おかげを受けるんです。
ね、親孝行の心がなかったら、お道の信心な、もうないと言うても良いくらいだと、親先祖を大事にしないようなら、金光様の信心は、もう金光様の信者と言うても、その資格はないとさえ、私は思うくらいですけれども、ね、親を大事にする、教祖様がああ仰るから、目には見えないけれども、御霊の世界のいうなら、ご先祖の皆様たちに、真心の奉仕をさせていただいたら、ね、おかげを受けるじゃないかと、このおかげを受けるということがです、御霊を信ぜずにはおれんじゃないか、天地の親神様の働きを信じないわけにはいけないじゃないかと。
ね、今日お参りになっとられますが日田から、井手さんという方が熱心に毎日参って見えられます。
昨日、一昨日でしたか、お参りになられてから、お届けされました。主人が今朝方からそのお夢を頂いた。
そのお夢が、亡くなられたお父さんが出て見えられた。
そしてね、二十四日が中日だけれども、それ前に合楽に参ってくれと仰った。
二十四日が中日だけれども、それ前の合楽に参ってくれ、お父さん、感動されたんです。
私はもうどうでも今度の二十三日の御霊様のお祭りには、もう仕事を休んで、お参りをするから、と言うてそのお届けがございました。
同時にそのお夢の中に、痩せ細っておられるお父さんの背中をね、その奥さんがいわゆる、一生懸命背中をこうなでておられた。
信心をさせて頂くということはです、ね、親孝行ということというならば、ご先祖様が、きついならきつい、と弱っておられるなら、弱っておられるてもです、ね、こうおさすりをしてね、あの、お慰めを申し上げるような事が、いうならば、でけておられる、たとえていうならば、肉親の親にも大事にするならばです、御霊様へのいうなら、効用も信心を頂いておればもうでけておると同じことなんだ。
ね、そこでその御霊様がです、痩せておられる、細っておられる、その御霊様に、いよいよ豊かに、肥えて貰おう、というのが御霊祭り。
もうこげな大事な事はないです。
ですからね、これは金光教でなからなければでけん、いや、合楽でなからなければ、これは分からないことなんです。
今日岡本太郎さんじゃ無いけれども、なるほどどういう教理教典を説いてです、何千巻あるか分からん経文の中には、それこそ御霊の実在も、働きもね、天地の働きも説きに説いて説き明かしてあるけれども、それは理屈の上でいうたらいっぺんに消えちゃうんです。
これを見てくれというものがないからです。
ね、教祖の神様がね、ね、親を大切にせいよ、お客様を大切にせいよと、ね、御霊様先祖を大切にせいよと仰るから、先祖を大事にさせて頂く、お商売しておるなら、お客様を本気で、真心から大事にさせて頂く、親を大事にさせて頂くほんとに、親不孝しようと思ってなかったけれども、親孝行がしょうごとしてたまらんようになってくるのが信心なんです。
そこにはね、おかげがあるといわれる。
ね、これはもう合楽でなからなければ、聞けない話であり、また、合楽でなからなければ、合点がいけんでしょうが。
ね、天地の道理を分からしてもらい、天地の道理に即応する生き方を段々身につけてくるとです、天地が私の為に自由になって下さるような、働きさえ頂けるでしょうが。
これを岡本太郎さんにいうたら、そげなことがほんなこてあるですかと言うじゃろうと思うですね。
そんならやっぱ、私はシャッポを脱いだち言うじゃろうと思うです。
ね、もし私が討論会に行ったならば、もう絶対日本中の人が有神論者になると思うです。
なし、これを見て下さいというものがあるんだから、教祖の神様が、こう教えておられることをこう、ね、勤めさせて頂いたら、健康にもなりました、家庭も円満になりました。ね、御霊のあるのないの、神様がござるのござらんのということはです、もうとにかく、死んだ宗教、もう枯れた宗教では、もう、どんなに理論を持ってしても、もうそれでは合点がいかないということです。
私は今日、それをほんとに思いました。
それにどうですか、そういうそれこそ何にも、いうならば、助ける働きも持たない、生きた働きを持たない宗教に、例えば、こうしがみついといて、そして例えば、これで先祖を大事にしておるといったようなことは、それこそ、岡本さんに言わすならば、いっぺんに一笑されてしまうことでございます。
なーんにんならんとつばい、は、金かけちからばからしか、ね、はら、もう、ご法事に何十万もかけるよりか、飲みどん行ったほうがよか、おごっそう食べたほうがよか、ということになるんです。
そんなことはありません、こういう理屈があるからです、それは理屈だ、そんなら魂の世界にお前行ったことがあるか、地獄・?見てきたか、いんや、見てきとらん、そげん見てもこんで、そげなこつが言えるか、ということになるのです。
ね、けれど神様がね、そういうたとえば討論の中にです、ね、ほんとにあの、どげんかまちっと言い様分かりはないだろうか、全国日本中の人が聞いておる。ね、それに神様がござるのござらんの、仏様の世界、御霊の魂の世界のということを、云々しておるのですから、いよいよ、日本国中の人が、迷うてしまうだろうと思います。
けれども、私は今日、おかげがあるじゃないかと、教祖様のお言葉を信じ、教祖様のね、教えを守らせて頂くと、ね、そしてなるほど御霊も、の世界もある、御霊は御霊ながらの働きもあるということが、分からしていただくじゃないか、
例えばその伊藤さんの例をとりました、例えばこれはいつものことですけれども、春秋の御霊様のお祭りが始まりますと、その前後にね御霊様のお祭り前にあるのは、御霊様がどうでもあの、手厚うまつってくれとか、ね、御霊のいうならば糧になる祈りを送ってくれとか、まちっと先祖を大事にしてくれとか、というようなことばっかりなんです。
ところがね、御霊様のお祭りが済みますとね、その御霊様たちが喜びでね、おかげでこういうおかげを頂いておると、衣装から変わってくるんです。
というようにその喜びを、遺族の者に示されるような働きが、合楽ではもう沢山あります。
その例をいうなら、今度でも沢山ございます。
ね、そこでです、なら、私は本当のことを、段々分からせて頂くということです。
ね、伊藤さんのところに現れた御霊様が、ほんとに御霊様の世界から、お父さんが出てこられて、ね、ほんとにどうぞ二十三日の御霊様のお祭りには参ってくれと、頼まれたのだろうか。
または奥さんがその痩せ細っているお父さんの背中を、こう撫で差し上げられたというようなことでも、ね、ほんとに御霊様がそれで、あの喜ばれたのであろうか、ね、これはね、私が最近申しておりますように、御霊には御霊ながらの働きこそあれ、御霊がね、御霊ながらの働き、御霊の世界での働きは、ね、例えばお金を持ってる人は、ある意味で贅沢も出来ましょう。着物の徳を受けておる人は、それこそいつもきちっと、紋付袴を付けておりましょう。まあ仏教的にいうならばです、それこそ百味の御喰的なおかげをいただいておる御霊もありましょう。
けれえどもさあ、遺族が困っておるから、この百味の御喰を与えようの、遺族が困っておるから、それに加勢してやろうの、というような事はでけんのです。
御霊様にお願いをするということは、いうなら死んだ者を、舞台に引っ張ってきて、さあ踊れというのと同じことなんです。
ね、だから御霊様はどこまでも、いうならば、あの、喜びの祈りを送って差しあっげる、御霊ながらの力を持っておる人は、別だけれども、ね、その働きのでけない御霊に、とにかく親孝行です。
一生懸命喜びを送ってあげる、ね、そのことがね、天地金乃神様の機感に叶う、お喜びに頂くことができる。親を大事にするというその心がけ、先祖を大事にしなければおられんという優しい心、ね、それを自分の例えば犠牲を払うてでも、沢山の金をかけてでも、お祭りをさせてもらうという、そういう心根、心がけが、天地金乃神の心に叶うから、おかげを受けるのです。
たとえば、伊藤さんのところにです、ね、いうならば、白髪を生やした神様が現れなさると言うてですね、二十三日は参れといわっしゃったちゃ、分からん、実感がない。親の姿であったればこそ、お父さんがね、あの世ではこういう状態でおるのだ、これは遺族のものも本気で信心しなければいけないぞと気付かれて、お参りになった。
お参りになって今日の御理解を頂かれた。なるほど神様のござるのござらんのということは言えない、これはいよいよもって、親孝行の信心がでけなければいけないということを分からせて下さることのために、天地の親神様が、お働きを下さったということになるのです。
神さまの演出なんです。ね、嫁ごが一生懸命信心してくれておるということがです、どのくらい、いうならば、伊藤なら伊藤の家の先祖の御霊様にもそれをお慰めすることがでけておるかということ、そういう、信心をしておることをこよなく神様が喜んで下さる。
その喜びがこちらへ返ってくる。
御霊の喜びももちろん返ってくるけれど、喜んだからと言うて、なら、何かをやるというようなことがでけるはずはないのです。
けどもそういうね、そういう信心を求めて下さるのです。
そこになら伊藤さん一家の助かりがある。ね、伊藤さん、伊藤さんというのはお里のね、井手さん、井手さん一家の助かりがあり、ふんなら、家内が一生懸命お参りをするように、なら、主人も一生懸命お参りをすることになると第一夫婦の中が良くなるでしょう。
親子がまた具合よういくようになるでしょう。
ね、仕事のほうがスムーズに順調にいくようになるでしょう。そういうおかげがあるから、ね、そういうおかげを頂いてくれよという、神様のいうならば演出なんです。
ね、ですから、どんなに沢山な、例えばなら、御霊様へお供えをしても、御霊様がなら、てつからそれを、なら、はあ、俺ん所にはお酒が来たけんちお酒を飲む、おれんとこにはうなぎの蒲焼が来たけん、うなぎの蒲焼をがぶがぶたぶちゅうようなことはでけんちゅうのです。
けれども遺族のものがね、うなぎの蒲焼がお好きだったから、お酒が好きだったから、甘なが好きであったからというその、真心が天地に通うのです。
天地に通うから、その天地の親神様が御霊様へ対するところの、いうならば、あたりもまた違ってこうということになるわけです。
ね、だから、御霊様の前にああしてお供えしとっても、一応は天地の親神様が受けて下さる、そしてそれをふんなら、適当に御霊の力なりにね、おかげを下さるのであって、ね、ただ問題はそうしなければおられない、お父さんが甘いものが好きであったからと言うてその、そのたとえば牡丹餅なら牡丹餅を作る間が素晴らしいとです。
ね、御霊様がよろこばっしゃろうと言うて、その心が神様の機感に叶うのです。
ね、そういう心の状態にならせて頂くことのために、一ついよいよ生きた信心をしなければならんということになります。
ね、ですから、皆さんどうでもね、私がね、こげん言いますと、もうほんとに自分、ようにいうけれども、ほんとにね、あの助かってもらいたいから、まーだほんなこついうなら、まだいいたいことがあるとです。
けどもそげんまでは言われん。ね、ある方がある教会にお参りをして、最近、合楽に一生懸命お参りをしてくる。ところがその方は今病院に入院している。それでも先生のお許しを頂いて、お参りしたいもんだと思っておったら、いつも御霊様の御祭りにはお参りをするときの、黒い羽織を羽織って、合楽教会のご神前にぬかずいておるところを頂いた。
そして頭をこうやって上げた途端にです、それが今までお参りをしておった教会に変わっておった。
そしたら今まで親先生と言うておった先生が、その方の膝の上に、ぽんとその熨斗袋を投げられた。はあ、もうここん先生はもう、参ってきたらもうお供えのほうが楽しみばいなと、ね、もうお供えもせんな参ってきてから、先生がそら催促なさった。
はあ、こげなこっちゃけんここに参るごつないもんというと、こうわけであります。
またお礼をさせてもらいよったら、合楽の教会に変わっておったというのです。
ね、だからここで私がなら、今のお夢を頂いておられるから、それがはっきりしてくるんですけれども、も、そういう例はいくらもありました。
ね、もうその教会でたとえ金光様であっても、もう、生きた働きというのもがあってないもん。
おかげを受ける、もう理屈だけはそうに、むごういわっしゃるばってん、おかげは渡しきらっしゃらんとじゃん、それこそお供えば持って行かなきゃ、おごうでやらん、ちゅうごたある態度じゃん、ね、だから、あんたどんがそこん教会に参りよったちゃ、たすからせんばのちはっきりなら、だれんでも言うて上げたいけれども、ほらもう合楽の先生ばかりは我が家んごつばっかり思うちから、よそん教会のごつ、ね、そげんふうに言うとです、そりゃね、今までおかげをいただいてきとったから、ご恩にもなってきとったから、ご恩ば忘れちゃならんばい、やっぱりお参りせにゃいかんばい、とこういう、思いですることはよかばってん、それこそ、ね、混ぜくられるというか、信心が、そして結局どっちつかずのおかげになってしまう。
ね、これも先日から、ちょうどここで、青年会の方達が信心、一夜信心実習会をさして頂いた。
そして今合楽で熱心に家族で参って見える、ところが、息子さんが、ね、ちょうどその教会でもたまたま、一夜信心実習会がある。両方から案内を受けたわけ。
ね、さあ、どっちにしようかと思うて迷うた。迷うたけれども、やっぱり自分が役員をもとしとったから、やっぱり顔出しに、いくまいと思うて、参ったのは良かったけれども、すぐ家から電話がかかってきた。
子供が左の骨を、ぶら下がってこう抜けた。すぐ帰ってください。もう夫婦でもうあくる朝すぐ参って見えました。親子三人で、左の手ちゅうことが、ここでいっちょ分からにゃいかんの、ち。はあ、もう分かりました、とこういうわけです。
ね、それは私も人情でいうならね、そりゃ、良かったの、前の教会に参ってよかったの、で人情ならそれでそれのほうが私本当なんです。
けれどもね、この人が助からなければならないと思うとね、そげんとこに参ったちゃ、どうして助かるのちはっきり言いたいのだけれどもね、けども私が言われんところは神様がそういうふうないうならば、お気付けまで下さって、教えてくださってある。
ね、だから、まあ、その他所に参っちゃでけんばい、合楽ばっかりちゅうとはもうこのくらいにしといてですたい、いやほんなこて、私はね、もうほんとに、そりゃもう言いたいです。
もう、あんたがほんとに助かりたいならね、もう、合楽一心にしなさい、そして改式ばしなさいち、あんたげんもう仏さや仏教ではでけん、助からせんがち、もどげんいうち聞かせたっちゃ分からん、ね、それこそ久富勇さんところね、今度新しい御霊様であげんおかげ頂きなさいましたです、あれほどの熱心をさせて頂いておられても、やはりね、その、とうとう亡くなられました。
ところがです、やはりその人物であんなさいますもんだから、親戚の手前があるから、とうとうあの、あれだけの信心をしよって、あの、仏教で葬式があった。
もちろんその後に、まぁ、御霊様ここで合碑してくれとか、またあの、五十日とか百日というそのお祭りなさっておられますけれどね、すっきりせん訳です。
そしたらその間もなくです、奥さんがね、お夢の中に出てこられてね、奥さんというなら夫婦生活をしよるところを頂いた。
そしてもうお父さん、悲しいけれど、はいらんち仰った。
ね、ほんとにね、もこげんほんなこて、噛んで含めるごといいござる、交流しないち、仏教じゃ、ほんとに正式にいっちょ、合楽の、はっきり言うならね、ほんとに改式して、教徒になって、ほんとに誰はばかることない、いうならば、大手を振って、私は合楽教会の教徒でございますというておかげを頂くようにしてくださいと言わんばかりの、いうなら、お知らせを下さってあります。
ね、もちろんこれは、なら、あの、くにかさんという奥さんでしたけれども、もちろん天地の親神様がね、嫁ごの体に、いわば、に、で、もう誰でもかんでも、あの誰でも分かり易く、ね、悲しいて、入らんから、ね、ですからね、そんなら何故私がなら、そういうことをここで皆さんに話をするかというとですね、その、いうなら金光様のご信心はね、おかげがあるからです、んなら、おかげがあるじゃなくて、ないならばです、どこに交流しない元があるか、神様のおかげを受けられんのはどこかということを極めなければいけんでしょうが。
ね、それを信心を進めていくというのです。
幼稚園ならこのくらいでよいけれども、中学校になったらもうそんなことじゃでけん、中学校んときはそれで良かったけれども、もう、大学になったらこんくらいな事も分からんことでどうするかと、神様はね、それこそ這えば立て、立てば歩めという親心を持って教導して下さいます。
場合には亡くなった家内を使うて、場合には亡くなったお父さんを使うて、いうならば、真の信心の道をほんとにしてくれよという天地の親神様の願いをね、ここに聞かなければいけんということです。
ね、今日のね、それこそ大変な偉いお坊さんが言われて、それこそ仏教にはもう何千巻という教えがあって、経文があって、ね、理屈の上でなら素晴らしいことが説いてあるけれども、さあ、悲しいことにはおかげがあるから、お釈迦様の教えられたことをすると、私はこげん健康にもなります、家庭も円満になります、医者が見離した病気も助かりました。
貧乏しよったけれども今では金に不自由するようなことはありませんと、こういう心がけにならせて頂いたら、こういうおかげが受けられるという、そのおかげが伴うておるから、神様を信じんわけにはいかん、魂の世界を信じんわけにはいかん、そこからいよいよ、目には見えないけれども心の世界、目には見えないけれども、神様のね、心を心として、信心を進めていこうということになるのです。
ね、今度の青年会で、大変難しいお話しでした。
それはお道の信心の、いわば天地に通うというとかね、天地の大道とか、真の道とかいうものは、ね、そのもう一歩一歩、真の道を間違えずに、ね、すすんでいくのだというわけです。
それにはちゃんと、ね、素晴らしい進んでいく道があると、それはね、お繰り合わせとお気付けの中から生まれてくるということでした。
ね、どんなに天地の道理を、何万願のいうならば、経文の中に説いてあります。
説いてあるだけで、それをなら、そのいくら読んだところで守ったところでです、ね、お繰り合わせもなからなければ、お気付けもなくてただ、真の道とか、天地につながる道があることはある。
それをね、天地の道理なら天地の道理、法則なら法則、天地の真理なら真理を言うてもいです、真理が分かても道徳が、法則が分かっても、分かっただででは、おかげは伴わないということです。
今の金光教、いや今の合楽ならば、ね、そのおかげ、お繰り合わせというものがはっきり頂けれる。
さあところがそのお繰り合わせとは何ぞや、お気付けとはならどういうことかということになりますとね、もうそりゃもう例を持ってするなら沢山あるですからね、私は一時間お話をしてから、後の一時間は質疑応答でした。
だから私は今日話したことが分からんことがあるなら、質問しろというけれどもね、もう質問する、いうなら、ことがでけないほうに、ふうにまぁ、かんで説いてありました。
お気付けではかくた、ね、たとえていうならば、ね、総会の時に、前の日に、明日はもう必ずというぐらいおしめりがあるということでした。
朝、四時のご祈念にでてくるときには土砂ぶりしよりました。けれどもご祈念を終わるころには上がって、とうとう一日降らずに晩に降りました。
そしてあくる日とあくる日が大変なおしめりでした。
ね、神様はね、いうならば、雨が降るとを前日に、その繰り合わせて下さることがでける、これがお繰り合わせ、天地のことでも自由になるというほどしに、繰り合わせて下さるんだと、これがお繰り合わせだと。
はあ、今日は金が要るばってん、どうしょうか、借りいくとこもないが、ね、と思いよったら、もうそれこそ思いがけないところからお金を送ってきた。
お繰り合わせちゃ、こげなもんじゃろうかというお繰り合わせ、皆さんが頂いておられるとおりですよ。
ね、だから、お繰り合わせとはこういうことなんだ。
ね、お気付けとはどういうことか、そっでさっきの私が、その、こっちの青年会いこ、こっちの青年会にいこかていうてまようたかたの例を話しました。
ちょうどそん半ばでしたから、ね、もうそれこそ、合楽に参らなければおかげを受けられない、もうそれこ子供が、もう、なんとん言いしれんごとかさがいっぱいでけて、合楽にお参りさして頂いた。お願いをさせて頂いて、お神酒をつける付けたところがです、こんどはまあ、体中に広がった。ね、そしてまたお参りをさせて頂いたら、それはもう芯から根から体中にある悪素を取り払いいただいておるのだから、お礼を申し上げてということを、お取次ぎの先生から頂いて、帰らせて頂いて、もうほんとにわずかな間で、もうそれこそもうきらきらするごとおかげを頂いた。
心から根から、いうならばお取り祓いを頂いて、そういうたとえばおかげを頂いて、あんまり信心のなかった息子達夫婦も、ここにお参りしてくるようになった。
両親は毎朝熱心にお参りしてくる。だからどうでもこりゃ私のうち一家は合楽で助けてもらわなければならん、救うてもらわなければならんと思わなければならない、神様もまた、その一家を助けずにはおかんという働きが始まっておればこそ、間違うてほかんとこ、そりゃ同じ金光様じゃけん、今まで参り寄ったとこじゃけん、そんのがほんのくさ、と今の金光教では皆そう言います。
ところがね、それではおかげは受けられん。ね、だから、だからこそ神様がです、ね、いったらああいうものを、子供が手が抜けたの折れたの、あのどうしたのというお気付け、とうとう帰って来て、そして自分も気付けと気が付いたというようにです、ね、お繰り合わせを頂いて、そりゃ、お気付けを頂かんというような事があるはずはないです。
人間ですから、生身を持っとりますから、ほんな事だと調子に乗っていきよると、いよいよほんなとこと思うていきよると、おかげも頂きよるばってん、そこに間違ってくると、神様がこらこらと言うて、これがお気付けなんです。
だから、お気付けということは絶対致命的なことはありません。
そうね、お気付けていうのはそうです。
たとえばお気付けで死んだてんなんちゅうことは絶対ないです。
死んだときにはもう寿命がきてから、おかげをいただいとるとです。
そげんはっきり思い込んどかにゃ、いかんですよ。
信心というものは。信心しよちゃったばってん、も、死んじゃったじゃないかと、死ぬくさ、人間じゃけん、ね、けれどもそのお気付けで気付いて、ぽっとほんなら、こちらのほうに、ほんとの道に出るでしょう。お繰り合わせを頂くでしょう。
だから、もう、真の道、天地につながる道はもう、絶対そこに現れてくるわけなんです。
ね、そういう道を私共は頂かせて頂きゃならなない、歩かせて頂かなきゃならんけれども、ね、まずならお繰り合わせをおかげを頂かなければいけない。
ただ青年会の方達が分からん分からんというたのは、ね、まーだそれほど、リアルにね、神様のお繰り合わせを感じきっていないわけなんです。おかげをおかげと思い切っていないわけなんです。
お気付けがありよるばってんから、お気付けに気が付いていないんだ。
深山さんという製材所の奥さんが毎日、日参ちゆう、毎日、日に二回も三回も、夕べは夜中に参ってきなはった。
てもうはよう帰ってください、今から、御霊様の挨拶しなければならんけんで、言うて、ね、ところがです、ね、妹さんが田主丸に嫁入っておられる。
その妹さんから電話がかかってきた。ご主人が肺が破れた。電話で一番口、・・?姉様助けち下さい、じゃったげな。
ね、それは姉しゃまが、合楽にお参りしよることをしっとる。金光様の信心をしよることをしっとるから、姉様、助けち下さい、もうさあそれで一生懸命の思いで参って見える、
ね、最近、深山さんの信心をいうともう、ほんとに我をとらせてください、もう我が出るために娘にも主人にもこりを積ませます。
人にもこりを積ませます。我を取らせて下さい、我を取らせて下さい、というて、お願いするようになりましたらね、ご飯のお茶碗の中にが蛾が浮いとる。
ね、お茶を頂こうとおもう、お茶の中に蛾が浮いとる、ほんとに神様が本気で願いだしたら、このようにもいうなら、あの、飛んでくる蛾ですよ。それをやはり、蛾は我に通ずるのですから、ね、もういよいよ親先生我を取らなければいけませんが、どういう信心させて頂いたら、我を取らせて頂くことができるでしょうかというてお伺いになりました。
ね、だから私は申しました。ね、我を取るということはね、あの、死んだ気になることですよ、●④私の紋を見て下さい、この紋は、いうならばあの、梅の花の紋です、天神様が付けておられる紋です。
私のにはこれに丸い輪があった。
ところがね、この輪があったら大きくなれない、だから、輪を取れ、輪とは何かというと、我を取れということであった。そこで私は、死んだ気でという修行をさせて頂いた。
昔吉木という方達が部落を上げて参って来よった。あちらで宅祭りがあった。
ほらもう親先生がうどんが好きだからというて、もうあの時分にないメリケン粉をね、よいメリケン粉を手に入れて、そしてもうかまぼこちくわ、こう具を入れて、して親先生が見えたらうどんば食べてもらおうというわけで、行ったらもう早速出ました。
ほおう、コリャ珍しいうどんと思うてから頂いたところが、どっこいすめが入っとらん。
あら、すめんはいっとらんうどんちゃほんに食べにくいですよ。
ほいでもうたいがい食べしもいよったら、勝手ん方で、あらー、ちいよるですもん、いまんとにすめば入れ忘れとった、まぁ、親先生じゃろか、もうほんなこてすめいっとらんならいっとらんちいうていただきゃよかとこで、死んだもんが物言うはずもないし、あんた、おいはいさんがものいわっしゃらない私は今死んだ気での、いうならば、修行さしてもらいよるから、というようなね、笑い話のようなこともあった。
ね、いうならば、それが我を、それからある意味での死んだ気での信心修行がでけさせて頂いたら、神様が、それから以来の私の紋の付いておる着物には、必ず輪のないものを、私の、私の個人紋とせよというお知らせを頂いた。
だから、輪がないからなんぼでも大きゅうなれる。
ね、だから、深山さん、あのね、我を取るということはね、死んだ気でということですよと、というてそんなら、まあ、すめんはいっとらんうどんを食べよということではないけども、まぁ、そげん、そのなにか飛び込み自殺でんせなんちゅうごつ難しいこっちゃなか、死んだ気でじゃけん、死ねじゃない。
ね、そこから、私はほんとに素晴らしい、いうなら、我のない世界が開けてくる。
そういうたとえば精進をさせて頂くならです、神様に願わんでも頼まんでも、お繰り合わせを頂きましょう。
ね、お繰り合わせを頂いてくると、人間ですから、もうこれより以上はなかごと思うたり、これがほんなとと思うたりして、まぁ、その時点ではほんな事だった。
けれどもその小学校から中学校なったらもう嘘なんだ。
そこでいつまでん、小学生のなりでおると、神様こらこらと、もうたいがいいい加減で中学校に行かんかというような働きがあるのです。
それをお気付け、そのお気付けが頂けるようになり、お繰り合わせが頂けるようになったら、もう間違いのないお徳の世界、いうなら天地につながる、天地に交流する世界がね、開けてくるんです。
●③ね、皆さんどうでも私が今日二度、感動した。
ね、一回は御霊様の前に私が、ね、こちらに移らせていただくときに、もうそれこそ、沢山の御霊様が、整列をして、私のお祭りの始まるのをね、今か今かとして待っておられるという感じなんです。
まあ、ありがとうしてありがとうして、ね、皆さんがおかげを頂いて有り難い、というとも有り難いばってんね、目には見えない、その御霊様の感動を受けるときに、私はもういつもこれは申します。御霊様のあの式年祭なんかを致します時にね、もうほんとに取次ぎ者冥利はここにありとさえ思うくらいです。
今日は皆さんが、この暑いとに、また親先生が御霊様のお呼び出しをしなさるとこ一時間なっとんかかる、ね、いつもこれは、呼びたしゃっと、呼び出し、ところがね、今日はもう整列をして待ってござるというのであるから、この私のお話を、ね、今日のお土産に御霊様が頂いて帰ってくださればもう良いと思うたから、私はただ、私の桂先生と福岡の吉木先生と、久留米の石橋先生と、それから、私の師匠筋にあたる荒巻弓次朗先生だけにご挨拶申し上げて、今日はいうならば、手を抜いたのじゃ決してないです。
皆さんが厚かろうけんで、ちょっと、今日はもう簡単にしとこというのじゃ決してないです。
ね、そりゃもう昨日ん晩一晩中かかってお呼び出しはちゃんとしてあるのです。
もう今日のお祭りはすぐに受けられるようにしてあるです。
それでも今までは、それをもういっぺん念を入れて、その一人の御霊様、一人一人の御霊様の確かめるようにして、申し上げておったんですけれども、これからおそらく、こういう形式になるでしょう、これからの御霊祭りは、ね、簡単になるのじゃないです。
それだけ合楽がおかげを頂いたということになるのです。
皆さんが信じなさらねばしょうがないけれど、合楽にご神縁を頂いておるというほどしのひとならば、今参ってきておらんでも、その方の眷属とでも申しましょうか、ね、今日あの伊藤さんのお夢の中に出て見えたお父さんの御霊様の向こうにはもうどれだけあるじゃら分からん、あの、ずっと、頭だけが見える、顔だけが見えるようなね、御霊様が続いてござったちゅう。
後から参って見える、午後参って見えたら聞いて見て下さい。ホーンとな事なんですから。
ね、だからそれ程限りのないです、ね、ふなら、おかげを下さろうとする神様の働きをね、私はそのご心眼を頂かれたというお夢の中に、私は今申しましたように感ずるのです。
いうなら天地の親神様が父親を付こうて、ね、真の信心をしてくれよと、いよいよ家繁盛子孫繁盛の道を辿らせて頂けよという神様の願いである。
ね、そういう御霊様が数限りなく救いを求め助かりを求めて、合楽のお広前に参集して見えておるとまず、一つ信じてください。
ね、信ずるところから、さあほんとに、牡丹餅と・・?を込めてということになるのです。
ね、その真心を込めて牡丹餅を作りよる間にこれが助かるのです。
さあ、今日はそれこそ、このへんの言葉でいうなら、もう、だっこ、へっこです。
抱っこも這う子も、それこそ、さあ今日はご先祖の御霊様へのご挨拶がでけるというてです、お参りをさせて頂くような心がね、神様の機感に叶う、御霊が喜ぶということよりも、そういう心がね、神様が喜んで下さるんです。それが信心なんです。
そこで私は、こりゃもぅ、合楽教会で御霊のお祭りをさせて頂くときに、一番最後に総代さんたちが玉串を上げて下さるのは、今日、それこそ今か今かと御霊が孫も子供もと思うとったのが全然お参りがでけなかったという人たちも沢山ありますわけです。
ですから、その方達の代名、代理としてね、今日は、今日はじゃない、いつも御霊様のお祭りの最後に総代さん方に玉串を上げて頂くのは、そういうためであります。
私はそれを信じておるからそうしてもらうのです。
ね、私はそういう、私は御霊の世界とか、ね、魂の世界とか、または、神様の世界というものをです、ほんとに分からなければ、本で読んで経文を読んだり、たとえば真理の本を読んで分かったりというようなことではです、それはもう絶対有心論と無神論とが戦うならばです、どっちが勝つとも負けるとも分らんです。
ただ討論に終わるだけです。ね、けれども合楽の場合はおかげがあるからと仰る。
ね、このおかげをなんと見るかと、私が改まったらこげな開けんはずの道が開けた、これでも神様があるとかないとか言えるかと、いうことになる、いうならば、おかげを引っさげての、話であるならばです、今日のテレビのあの討論が、もし私であったならばです、日本中の人達にです、ほんとに神様の実在も、または、魂の世界でいうならば、ひしめくほどしの難儀をしておられる方達の御霊のことも、おかげを頂いて喜びの御霊として、御霊ながらの働きがでけておられる御霊さまたちのことも説明がでけたろうものにと思いました。
ね、だから、皆さんもです、そのくらいな説明はでけるくらいな信心を一つ頂いていただきたいとおもいます。どうぞ。